小生が持ち合わせるなけなしの日本史知識に照会してまず想起される関口氏は、戦国時代に今川家の家臣であった関口刑部少輔、あるいは、その息女で徳川家康公の正室だった築山御前がせいぜいでしょう。但し、婦人は例外的な状況を除いて嫁いで後は旧姓を名乗りませんから、関口一族で曲がりなりにも歴史に名を残したのは刑部のみとなり、その彼がどのような人物であったかについて好奇の念を覚えたのは、同姓の縁として自然な感情の発露と思われます。

刑部が仕えた今川義元公や娘婿の徳川家康公など、大きな勢力を蓄えて威勢を振るった殿様であれば、彼らについての記録は必然的に豊富で、後の世にもその人物像が広く知れ渡る事になります。しかし、刑部の生きた戦国の世に彼が及ぼした影響は、両公のそれに比肩すべくもないことは言うに及ばず、関口の嫡流は、明治はおろか江戸時代に入る前に既に消滅しておりますから、家伝の類が子孫に相続される事も適わなかったと見受けます。

また、彼は政治的にも軍事的にも顕著と言える華やかな手柄もないことを鑑みれば、後世における知名度の低さは至極当然の成り行きで、「その他大勢」的な性格を持つ者の宿命にて、少なくとも伝記や自伝、日記の如く、その人物の生涯を余すことなく記録した文書の存在は期待できませんから、古の一私人の生き様を伺い知るのは、その人物が筆不精な場合、なかなか困難な仕事となります。

オンライン百科事典ウィキペディアの記述によれば、刑部は、親永、氏興、義広、氏広と多くの名前を名乗ったようで、生没年は1518年〜1562年とされ、駿河国持船城主で、駿河の守護大名・今川義元公の義弟(妹婿)、また徳川家康(当時は松平元康)の岳父であり、2人の有名人の姻戚であった事は、彼の事跡を史書に記録せしめるのに寄与したと言えましょう。

1560年、桶狭間にて主家である今川家が織田家に大敗を喫した後、娘の嫁ぎ先である徳川家が今川家から離反した事で、今川家当主・氏真から猜疑を掛けられ、1562年、刑部は氏真の命で切腹しました。後に彼の娘の築山御前と孫の松平信康(徳川家康の嫡男)も処刑・切腹を強いられましたから、随分薄幸な血筋です。

高潔な武士の精神を持ち合わせぬ小生であれば、前途有望な婿殿を当主とする徳川家に亡命し、捨て扶持をせびって孫でも抱きながら隠居としけこむ所でしょう。しかし、刑部は桶狭間で甚大な損害を被って弱体化しつつあった主家にあくまで殉じ、その上主公に命じられて詰め腹を切らされ、誠に武士らしく潔いと申しますか、忠義心が強くが愚直で、世の趨勢を読めぬのか読まぬのか、古風で律儀の保守的な侍という印象を受けます。

いずれにしても、彼の死を以って関口刑部家は事実上壊滅したため、この事は関口史上においては重大事件と言えます。故三波春夫氏の『元禄名槍譜俵星玄蕃』の曲中、玄蕃が杉野十平次を激励する「命惜しむな、名をこそ惜しめ」との名調子に感銘を受けたものですが、赤穂の如く既に取り潰された廃藩ならいざ知らず、没落途上で家名存続の余地が残る家においては寧ろ命を惜しんで御家再興への布石を敷くのが順当と思われます。

斯様な見地から、数多の英傑群雄が活躍した同時代において、彼はどう贔屓しても特筆すべき才能も魅力も見出せぬ凡庸な人物に映ります。とは言え、戦乱に明け暮れる過酷な時代の荒波に翻弄されて身を滅ぼした事は不運であり、必ずしも無能で愚鈍であったとは言えません。

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